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泣いたら殴られる子どもと、タヌキの女の子たちの話

 うちの父は修羅だったので、幼い頃から泣いたら殴られるような環境で育った。

 書いてしまうと、やけにあっさりしている。けれど実際の空気は、もっと重たかった。泣き声を飲み込んだときの喉のひりつきとか、拳が飛んでくる前の、部屋の温度が一度だけ下がるような静けさとか。

 姉もわたしも、小学生に上がる前から長距離を走らされていた。膝の裏が焼けるように痛くなって、胸の奥で空気が逆流しても、「止まりたい」と言葉にしてしまったらさらに面倒くさいことになると知っていた。習い事もすべて「やる」と言う前に申し込みが終わっていて、断るという選択肢の存在を教わったことがない。

 それを、昔は「スパルタ教育」って笑っていたけれど、今の児童虐待の定義を見れば、殴る・蹴るの身体的暴力は、どう読んでもど真ん中で「虐待」だ。「泣いたら殴られる」子どもの世界は、「厳しいしつけ」なんてきれいな言葉では包めない。

 だから、人前で泣けなくなった。

 泣きたくないわけじゃない。涙腺のどこか手前で、身体のほうが勝手にブレーキをかけてしまう。涙をこらえる、より先に、凍る。泣きそうな顔をするくらいなら、冗談めかして「スパルタというより虐待笑」と書いてしまったほうが楽だ。

 あの「笑」はわたしの盾だ。
 真顔で言ったら、たぶん重たすぎて、距離を置かれるのを知っているから。


「男の子がほしかったんじゃ」父と、武芸ごっこにされた娘たち

 なんでそんな育て方をされたのか、と考えるとき、真っ先に浮かぶのがこれだ。

 ――ふたりとも女だったから、「わしは男がほしかったんじゃ」系の父親だったのかな。

 武芸の道を往く父親。頭の中のイメージは、いつもそんな感じだ。自分の若いころの夢や根性論を、息子に叩き込むつもりで構えていたのに、生まれてきたのは娘ふたり。そこで勝手にスイッチを切り替えて、「じゃあ女でも男として鍛えればいい」と発想が飛び、長距離だの習い事だの、全部まとめて「修行」に変わってしまったのかもしれない。

 もちろん真相は、本人しか知らない。訊いたところで、ろくな答えは返ってこないだろう。

 ただ、「男児がいないので娘を“男として育てる”」という発想自体は、決して珍しいものじゃない。家長としての父の権限が強く、「跡取りは男」「女は家に嫁ぐもの」という価値観が当たり前だった時代、妻子への支配も“家を守るため”の権利として正当化されてきた。

 その古い設計図を、そのまま昭和末期~平成の家庭に持ち込んだらどうなるか。だいたい、うちみたいなことになる。

 わたしの身体は、「武芸ごっこ」の舞台装置として扱われた。

 走る脚、殴られる腕、泣くときの顔。どれも全部、「鍛える対象」であって、「守る対象」ではなかった。

 だから、わたしは「オスカル」や「サファイア」に異様に惹かれたのかもしれない。

ベルばらとリボンの騎士──奪われた性別の物語

 ベルばらのオスカルも、リボンの騎士のサファイアも、「男がほしかった父親」によって男として育てられた女の子だ。

 ジャルジェ将軍は、「息子がほしかったから」というだけの理由で、オスカルを男として育てる。彼女はフランス王妃付きの近衛隊長として剣を握りながら、「女として生まれた自分」と、「男として扱われる役割」のあいだで揺れ続ける。

 サファイアはもっと露骨だ。本当は女の子なのに、天使のいたずらで「男の心」と「女の心」を両方持たされ、王子として育てられる。舞踏会ではドレスも着れば剣も振るう、性別越境の象徴みたいな存在だ。

 どちらも、親や制度の都合で“男児枠”にねじ込まれた少女の物語だ。

 小さい頃のわたしは、その構造を言葉にできなかった。ただ、剣を握るオスカルやサファイアを見ながら、「この人たちは自分で選んで戦っている」と、なんとなく感じていた気がする。

 同じ「男として扱われた娘」でも、彼女たちは自分の信念や恋や正義感で行き先を決める。父親の都合だけで終わらない。

 わたしの現実では、「走らされる」「殴られる」までが一方的に決められて、その先の選択肢なんて用意されていなかったから。

 だから、ベルばらもリボンの騎士も、わたしには「自分の物語を取り返した女の子」のファンタジーとして読めてしまう。父親の都合でねじ曲げられた型を、自分の手で持ち直していく女たちの話。

「なんでお母さん庇ってくれなかった?」というバグ

 父が修羅だったとして、もうひとつ、子どもの頃から胸につっかえていた問いがある。

 ――なんでお母さん、庇ってくれなかったの?

 殴られているところを、母は見ていた。台所から半歩だけ覗くような角度で、視線をそらしたまま、湯気の向こうに立っている背中を、何度も見た。

 あの背中はいちども、間に入ってこなかった。

 大人になってから知ったのだけれど、うちの母は昭和一桁の生まれだ。戦中戦後フルコンボの世代で、「嫁に行ったら夫に従うのが当たり前」「家庭内の問題は、家の中で我慢しておさめるもの」という価値観のど真ん中で育っている。([現代の理論][2])

 夫に逆らって子どもを庇う、という行為は、彼女の世界観ではほとんど「家への反逆」に近い。

 経済的な自立手段は少なく、実家に逃げ帰れる保証もない。DVや虐待は「しつけが厳しい」「亭主関白」というラベルで片づけられ、「女が我慢しなさい」と言われがちだった時代だ。

 そんな土台の上で、「殴られている子どもを前に出て庇うか?」と言われたら──
 
 できる人もいたはずだし、できなかった人も山ほどいただろう。

 わたしから見える母は、「助けてくれなかった人」だ。
 その感覚は、本物だし、簡単に書き換えるつもりもない。

 けれど同時に、母から見えていた世界はたぶんこうだ。

 夫に逆らえば、家を失うかもしれない。
 逃げる先もなく、子どもを連れても詰む未来が見える。
 実家にも「嫁に行ったなら我慢しろ」と言われるかもしれない。

 ――それでも、いちばんマシな選択肢は何か。

 きっと彼女なりに、ギリギリの計算をしていたのだと思う。機嫌を損ねないように、火種を増やさないように。「庇わなかった」のではなく、「庇えなかった」場面も、たくさんあったはずだ。

 だからといって、聖人みたいに「母を責めない」とまでは言えない。ただ、「あの人もまた、ムリゲーの盤面に立たされていた駒だった」という視点は、頭の片隅に置いておくことにしている。

 わたしは、昭和一桁仕様のOSを、そのまま受け継いではいない。それだけは確かだからだ。

水星の魔女と、呪いで育てられたタヌキ

 だから、水星の魔女のスレッタに「分かる」と思ってしまうのは、わりと自然な流れだと思う。

 彼女は、「逃げたら一つ、進めば二つ」という母の呪文で育てられた子どもだ。ガンダム・エアリアルに乗るのも、ベネリットグループの学園に転入するのも、クワイエット・ゼロという壮大な計画を進めるための駒としての配置にすぎない。

 怖くても、決闘の場に出ていく。
 泣きそうでも、「進めば二つ」を信じて前に出る。

 彼女にとって「お母さんの言葉」は、世界の仕様書であり、お守りであり、その実、強烈な呪いでもある。

 おどおどしていて、小動物みたいで、人見知り。
 でも行動量だけは異様に多い「タヌキ」だ。

 プロスペラにとって、学園は作戦フィールドだ。
 けれどスレッタにとっては、呪い以外の言葉をくれる人たちに出会う場所になってしまう。

 ミオリネという、もうひとりの「呪い育ち」の子と。
 アース寮という、「血筋や企業名札じゃなく、本人を名前で呼ぶ」居場所と。

 あの物語が最後に描いたのは、「呪いの言葉を完全否定する」でも、「母の罪をまるごと許す」でもない、中途半端で、危うくて、それでも前に進もうとする赦し方だ。

 母のしたことは許されない。
 けれど、それでも「お母さん」だと呼びたい気持ちが残ってしまう娘の側の、やり場のない手つき。

 それを、「呪いを乗り越え、赦した」とひとことで片づけてしまうには、ずいぶん複雑な線の上を歩いている。だからこそ、わたしには刺さる。

臆病タヌキは、書いて呪いをずらす

 わたしは「臆病タヌキ」だと自分で言う。

 「どうせ価値ゼロ」「読者ゼロ」と先に言っておいて、期待される前に自分で作品をsageておく。褒められると怖いから、先に「ゴミなんで読まなくていいです」と逃げておく。

 それでも毎日、長編を書き続けている。
 設定をこねて、AIに投げて、矛盾を洗い直して、何十万字も積んでいく。

 行動だけ見れば、完全に「進めば二つ」側のタヌキだ。
 スレッタと同じで、自己評価の低さと前進力が噛み合っていない。

 違うのは、わたしの背中を押しているのが、母の呪文ではないところだろう。

 「どうせ価値ゼロだから、好きにやる」。
 その開き直りのほうが、いまのわたしを動かしている。

 わたしにとってのアスティカシアは、ネットの片隅だ。
 オスカルやサファイア、水星の魔女たちの影を踏みながら、自分の「臆病タヌキの女王」を書き続けている場所。

 昭和一桁の母のOSも、修羅の父の武芸ごっこも、そのままコピーはしない。でも、その上に自分の物語を積んでいくことはできる。

 呪いをゼロにはできない。
 なかったことにもできない。

 けれど、配置を変えることはできる。
 「泣いたら殴られる」世界で覚えた生存スキルを、ペンを握る手にすり替えてしまうことはできる。

 タヌキはタヌキのままで。
 剣の代わりにキーボードを叩きながら、少しずつ、呪いの文章を書き換えていく。

 ベルばらやリボンの騎士や水星の魔女が、そうやってわたしの中の配線をずらしてくれたように。

 今度は、わたし自身の長編が、どこかの誰かの「呪いの配線」を、ほんの一ミリでもずらせたらいいなと、ときどきだけ思う。普段は「読まなくていいです笑」と言いながら。

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