今描いてる話
羽毛の隙間に、じっとりとした熱がこもる。
シーツの海で寝返りを打つたび、背中の黒い翼が重くシーツを引きずった。ヴァルキリーとしての象徴でもあるそれは、霊気で構成されているため消し去ることもできる。しかし、どうにもこの肉体に馴染んだ重みを完全に消し去る気にはなれず、半ば出しっぱなしにしたまま、キングサイズのベッドの上で身体を丸めていた。
「う〜ん……」
喉の奥から、湿ったうなり声が漏れる。
窓の外から差し込む日差しは、すでに容赦のない黄色い熱線を部屋の中に振りまいていた。
ヴァーレンス王国の夏は比較的穏やかだと言われているが、それでも朝の10時を回れば、部屋の空気は温まったスープのように澱む。かつて魂を導くために飛び回っていた冷涼な天空の記憶が、遠い幻のように思えた。
つまりブラックヴァルキリー・カーラは10時までベットでうじゃうじゃしていた!
コン、コン。
ガラスを叩く硬い音が、微かに耳に届く。
鳥がぶつかったのだろうか。そう思って、枕に顔を埋めたまま片方の目だけを開けた。
二階の窓の外。透明なガラスの向こう側に、見覚えのある黄緑色の長い髪が揺れている。宙にふわりと浮いたまま、こちらを覗き込んでいる顔があった。
「お久しぶり~~」
窓が少しだけ開き、そこから滑り込んできた風と一緒に、軽い声が室内に満ちる。
シルフィード。かつて浮遊大陸ティルナノグで、共に戦い、そして共に敗れ去った風の精霊だった。あの激戦のあと、強大すぎるミハエルたちの力に怯え、猫のように素早く姿を消したきり、音沙汰のなかった女だ。
カーラはベッドの上で這いずり、濡れたような金の瞳を動かして親友を見つめた。
「……扇風機がきた」
開口一番、そう呟く。
「ちょっと! 久しぶりに会った友達に対して第一声がそれ!? 失礼じゃない?」
「シル、扇いで。風を操れ。今日の朝は格別に暑い」
「カーラだって翼があるじゃない。自分でパタパタすれば?」
「これは飛ぶためのものだ。自分を扇ぐようにはできていない。ほら、早く」
ベッドの上にうつ伏せになり、両手を伸ばして懇願する。その姿には、かつて戦場で槍を振るっていた猛々しい戦乙女の面影は微塵もない。
シルフィードはあきれたように吐息を漏らしながらも、指先を軽く振った。室内の澱んだ空気が動き、肌を撫でる冷涼なそよ風が生まれる。汗ばんでいた首筋が、すうっと冷やされていく。
「んもう、仕方ないなぁ……。本当にここで暮らしてるんだ」
シルフィードは部屋の中を見回した。
整えられた高級な家具。棚に並ぶ細々とした本や、無造作に置かれたフィオラのギャラリーのパンフレット。床に転がっている、半分食べかけの甘味の包み紙。それらすべてが、ここでの生活の長さを物語っている。
「で、カーラは……あのミハエルって公爵の部下になったの?」
シルフィードの問いかけに、カーラは寝返りを打って天井を見上げた。
「部下? 笑わせるな」
「じゃあ……お嫁さん!?」
その言葉が耳に入った瞬間、カーラの背中の翼がバサリと大きく広がった。シーツが乱れ、枕がベッドの下へと落ちる。
「はっ!? わたしがあやつと夫婦だと!? バカを言うな! わたしはただ、ミハエルの部屋を一つ占領しているだけだ!」
「占領って……許可はもらってるんでしょ?」
「おう。飯もくれる。家賃も払わなくていいと言うからな」
ふん、と鼻を鳴らし、誇らしげに胸を張る。
シルフィードは指先で風を送りながら、その様子をじっと見つめていた。やがて、気の毒そうな、それでいて言葉を選びかねるような表情を浮かべる。
「それって……ハトみたいじゃない?」
「ハト?」
「うん。駅前とか、公園の噴水とかに集まるハト。人間がパンくずを投げてくれるから、そこに居着いてる感じの……」
「……………………」
カーラは言葉を失い、黄金の目を丸くした。
ハト。平和の象徴などと持ち上げられながら、実際には生ゴミをあさり、人の手からエサを強奪していくあの灰色の鳥のことか。戦乙女たる自分が、あのような存在と同類だというのか。
「本当に噴水とかに集まるハトレベルの事情だった……。まだお嫁さんとか言われてる方が、人間としての尊厳があるかもしれないよ……?」
「うるさい! わたしはあやつと夫婦の営みなんかするつもりはない! 断じてな!」
ブラックヴァルキリー・カーラはベッドの上で足をバタつかせた。
ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒ。あの恐るべき公爵。彼の持つ力は底知れず、何よりその周囲にいる女たちの多さは、かつての神域の秩序すら狂わせるほどだ。そんな男と、男女の関係になるなど、想像するだけで頭の芯が熱くなる。
「ただで部屋と食事を貰っている。その代わり、たまにヴァルキリーの力で奴を助ける。ギブ・アンド・テイクだ。何の問題もない」
「ふーん……」
シルフィードの相槌は冷ややかだった。
風を操る彼女の視線は、部屋の隅にあるクローゼットへと向く。そこには、ミハエルが用意したのだろう、仕立ての良さそうな現代風の衣服が何着も掛けられていた。黒を基調としながらも、活動しやすそうなタクティカルギアとスカートの組み合わせ。かつてのヴァルキリーの鎧を模したような、それでいて街に馴染むデザイン。
「本当に、ハトっていうより……飼い犬? 飼い鳥?」
「鳥と言うな!」
「だって、翼生えてるし」
シルフィードは窓際に腰掛け、部屋に吹き込む風の温度を調整した。
外の熱気が完全に遮断され、部屋の中だけが秋のような快適さに保たれる。カーラはその心地よさに再び目を細め、シーツに顎を乗せた。
「まあ、お前がどう思おうと勝手だがな。ここは天界よりもずっと都合がいい。窮屈なルールもないし、冷たい雨の日に外を彷徨う必要もない。雨好きだけど。温かいスープと、甘いケーキが、呼べば出てくるのだぞ?」
「それは……確かに魅力的だけど」
シルフィードは少し身を縮めた。
彼女にとって、ミハエルという存在はまだ「恐怖」の対象だった。あの圧倒的な暴力と、すべてを見透かすような冷徹な瞳。一度敵対した者が、こうして同じ屋根の下で暮らしていること自体が信じられない。
「怖くないの? あの男。いつ機嫌を損ねて、私たちを塵にするかわからないじゃない」
「ミハエルが?」
カーラは少しだけ考えた。
確かに、彼は戦場においては無慈悲な怪物だ。しかし、この屋敷の中での彼は、驚くほど気の抜けた、冗談ばかり言う男だった。
「奴は、泣いている女に極端に弱いからな。
あと、困っている者を無視できない病気にかかっている。不治の病だ。くっくっくっ!
わたしが少し腹を空かせた顔をして見せれば、すぐに台所でフライパンを振り始めるのだ」
「ええ……あの公爵が料理?」
「そうだ。味も悪くない。特に肉を焼いたものは美味いぞ」
ブラックヴァルキリー・カーラの喉が、無意識のうちにゴロゴロと鳴る。
その様子を見て、シルフィードは呆れを通り越して感心すらしていた。
「完全に餌付けされてるじゃない」
「餌付けではない! わたしは戦乙女としての誇りを……」
「はいはい、誇りね」
シルフィードは窓から身を乗り出し、下階の様子を窺った。
静かな庭園。ヴァーレンス王国の王都の一角にあるこの邸宅は、広大で、静謐だ。貨幣制度を排したこの国において、魂の欠片で取引を行うという独特の文化。その最高権力者の一人であるミハエルの住処は、浮世離れした平和に満ちている。
「でも、よかった。カーラが元気にやってるみたいで。私、ティルナノグのあとはどうなることかと思ったよ」
シルフィードの言葉は、少しだけ本物だった。
敗戦の将として、神域の義務を捨てたヴァルキリーがどう処罰されるか。あるいは、人間の奴隷にでもされているのではないかと心配していたのだ。
カーラはシーツから顔を上げ、黄緑色の髪の友人を見つめた。
黄金の瞳が、少しだけ和らぐ。
「お前も、ここに住めばいい。部屋はまだ余っているぞ」
「えっ!? 私が? 無理無理! あの公爵の顔を見るだけで、私、心臓が止まりそうになるんだから!」
「慣れだ。あやつの顔など、ただの整った置物だと思えばいい。それに、お前が居ればいつでも涼しい風が吹く。わたしとしても助かる」
「結局、私を扇風機代わりにしたいだけじゃない!」
