※このSSは、【わがまま女神×冷酷死霊術師】殺し合いから始まる異世界神話 の番外編最終話のネタバレを含みます。
気づくと、そこは小さな野原だった。
緑の波の中に優しく揺れる白い花々。風の精霊たちがラナスオルの白髪を柔らかく撫でていく。
花の香りが仄かに漂うが、どこか現実感が薄い。
周りを見渡すと、視界は雲の中にいるかのように白く染まっていた。
まるで空中庭園のような、果てしなく続く夢幻の世界。
彼女はいつの間にか、一人でそこに立っていた。
「……こんな場所知らないな」
ラナスの地でも見たことがない場所。けれど、不思議と恐れはなかった。
「そうか、夢か……」
寂しげに呟いた瞬間、背後から聞き慣れた声が響いた。
「気に入りましたか? ラナスオル」
その声に、心臓が一瞬止まる。
すぐに振り返ると、黒衣を纏った銀髪の男が佇んでいた。
冷たい銀色の瞳がまっすぐこちらを見つめている。
「シード……?」
震える声で名を呼んだ。
「ええ」
彼は何も変わらない。いつもの冷静な表情、感情が希薄な声。
けれど、ラナスオルにはそれがたまらなく懐かしかった。
「……ふん」
今すぐにでも飛びつきたくなる衝動を必死に抑え、彼女はぎこちなく微笑んだ。
「……久しぶりだな」
「そうですね……ですが、今日は特別です。これを受け取ってください」
そう言うと、シードは懐から小さな包みを取り出す。
白いリボンで結ばれた小箱を開くと、中にはきっちりと並んだ手作りのクッキー。
形も整い、焼き加減も文句のつけようがない。
いかにも彼らしい完璧な出来栄えに、ラナスオルは少しだけむすくれる。
「君がクッキーを焼くとは。本当になんでもこなすのだな」
「ホワイトデーというやつですからね」
シードは淡々と言う。ラナスオルは戸惑いつつ、その一つを口に運んだ。
さくっと心地良い食感が広がるが、いくら噛んでも味がしない。
「……まったく味がしないじゃないか。君程の腕前で失敗作とは、珍しいな」
思わず不満げに呟くと、シードは肩をすくめる。
「ここは夢の中ですからね。味覚までは再現できませんよ」
「……期待させておいて、ひどい奴だな君は」
ラナスオルはそう言いながら、涙が滲むのを隠すように一つ、また一つとクッキーを口に運ぶ。
何個食べても味はしない。それでも、シードが自分のために作ったという事実がたまらなく嬉しかった。
ふと、ラナスオルは草の中に揺れる花を見つめて呟く。
「今頃、セラたちはどこを旅しているんだろうな」
シードはしばらく何も言わず、ラナスオルの横顔を見つめている。
風が二人の間を通り抜け、紫の瞳から零れ落ちかけていた涙をさらっていった。
ややあって、彼は懐かしむように言葉を紡ぐ。
「……心配は無用です。あの子たちは強い。それに、僕も見守っていますから」
「見守って……いる……」
その一言に、ラナスオルの心が大きく揺れ動いた。
とめどない感情がこみ上げ、抑えきれなかった。
次の瞬間、衝動的にシードを押し倒し、彼の身体にしがみつく。
「ラナスオル……」
「……やっぱり……君がいないと、私は……!」
堰を切ったように涙が溢れる。
「ずっと……平気なふりをしてた……あの子の前では、涙を見せられなかった……私は……強い母でいなければならなかった……!!」
涙がシードの胸を濡らしていく。
「でも、あの子が旅に出て、また一人ぼっちになって……本当は、心細かった……!!」
シードはそっと抱き返し、ラナスオルの背を撫でる。
「……ずっと強がってきたのですね」
「……うるさい……っ」
「あなたはそういう人ですから」
シードはラナスオルの涙を指先で拭い、そっと顔を近づける。
そして、静かに唇を重ねた。
少しだけ温かく、離したら消えてしまいそうなほど儚かった。
風がそよぎ、白い花びらが二人の周りに舞い散る。
シードはその一枚を手に取り、ラナスオルの手のひらの上にそっと置いた。
「……いつかまたここで会いましょう。ラナスオル」
その言葉とともに、シードの姿は徐々に霞んでいく。
「……いやだ……行かないでくれ……シード……!」
「……僕は……ずっと……あなたのそばにいます……」
消えゆく彼の声は、最後まで優しかった。
* * *
目が覚めると、ラナスオルは居城の寝室にいた。
枕は少しだけ濡れ、目尻には乾いた涙の跡が残っていた。
まだ余韻から醒めきれず、胸が高鳴ったままだ。
「……夢か」
ぽつりと呟いて、ふと握り締められていた右手を見る。
ゆっくりと手を開くと、小さな白い花びらが一枚乗っていた。
夢だったはずの彼が残した、唯一の証。
「……バカ神め」
もう声すら届かないことは分かっていた。
それでも、ラナスオルは花びらを胸に抱きしめ、優しく微笑んだ。
「……また、いつか」