「e4」
「c5」
広い駐車場のど真ん中に車を駐車させた上官から挑戦を受けた秋山由舞(あきやまゆま)は開口一番そう言った。
「おや、シシリアン・ディフェンスとは意外ね」
小栗麗子(おぐりれいこ)はするりと運転席から降り、小さな肩にバッグをかけながら微笑む。
一見すると中学生が運転席から降りてきて、助手席から成人のお姉さんが降りてきた、そんな奇異な光景に思えるがもちろんそんなことはない。
小栗はこうみえて今年で27歳だし、モデル体型の秋山は24歳だ。
二人は特に何の打ち合わせもなく、自然にブラインド・チェスを始めるのが常だった。
ショッピングセンターの自動ドアが開くと、冷房の効いた空気が心地よく体を包む。
「Nf3」
「d6」
無言のまま、視線だけで合図を交わし、店内へ足を踏み入れる。
「おや、良い柄のカップね」
小栗がふと足を止め、紅茶用のティーカップを手に取る。白磁に金色の縁取り、上品な花柄が描かれている。
「小栗さんの趣味に合いそうです」
秋山は言いながら、すかさず「d4」と打ち込む。
小栗はティーカップを戻し、「cxd4」と返す。
「さっきのカップ、買わなくていいんですか?」
「物は増やさない主義よ」
「Nxd4」
「a6」
会話とチェスが平行して進んでいく。二人はまるで日常の雑談を交わすように、盤も駒もないチェスを指しながらショッピングを楽しんでいた。
洋菓子コーナーを通ると、秋山が「あ、小栗さん、これ好きじゃありません?」と、フランス産の高級チョコレートを指差す。
小栗はちらりと視線をやるが、すぐに「Nxc6」と切り返す。
「bxc6」
「Bd3」
「確かに好きだけど、最近甘いものを控えてるの」
「まあ、それは残念です」
次に二人は書店の前を通る。秋山は思わず足を止め、軍事史のコーナーをちらりと見る。
「秋山、何か買うの?」
「いえ、ちょっと気になっただけです」
言いながら、「g6」と指す。
「Be3」
「Bg7」
店内をぐるりと一周し、特に何も買わずに駐車場へ戻る。
「Qd2」
「Nf6」
車のキーを取り出しながら、小栗がふと微笑んだ。
「ねえ、秋山」
「はい?」
「たまには『h3』くらい打たない?」
「いえ、小栗さん相手にそんな手を打ったら、それこそ一瞬で崩壊します」
二人は車に乗り込み、エンジンをかける。
「0-0」
「0-0」
このままどこかでお茶でもしようか、それとも帰るか。
そんなことを考えながら、小栗は小さな足で静かにアクセルを踏み込んだ。
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これでは、どんなお話なのかわかりませんね。
では、もう少しだけお見せしましょうか。
海上幕僚長たるもの、数多の変人を見てきた自負はある。
だが、小栗麗子という存在は、その『変人』カテゴリーの中でも別格の扱いを受けるべきだと彼は確信していた。
まず、見た目。
あれである。
白百合の化身かと見紛うほどの小柄な女が──ほんとに、ちっちゃい。身長145センチなどと、いくら自衛隊が人手不足とはいえ軍人としてどうかと思うサイズ感だ。
そんな「中学生がコスプレしてる」と100人いたら100人が疑いもなく信じるだろう海自の白い制服を纏い、軍事用語を流暢に操る様は——そう、軍事にとてつもなく詳しい彼女は、まるで銀のティースプーンで火薬を計量しているような不釣り合いな違和感を醸し出しているのだ。
そして、その頭脳。
IQ145。
ああ、そうだ、確かに高い。ギフテッドだ。軽くメンサ会員になれる高さだ。
だが問題はそこじゃない。その高性能頭脳が「庶民的な理解力」というモジュールを最初から実装していないことである。
結果、上官である自分に対しても敬意と皮肉を8:2でブレンドしたような応対をしてくる。
いや、まだいい。敬意があるならまだマシだ。
問題は、彼女が「自分よりバカ」と判断した相手に容赦がないことだ。
会議中に沈黙したかと思えば、いきなり「この程度の演習計画なら中学生の自由研究にしても粗雑ですわね」とか言い出すのだ。ちなみに言われたのは陸幕の2佐である。二度と会議に出てこなくなった。
彼女を組織に置くことのメリットは山ほどある。頭脳、体力、実行力、言語能力、威圧感、すべて一級品だ。だが——
「制御不能」という一点において、彼女は戦略兵器と同義である。
いや、もはや小栗麗子は組織という艦の上に偶然搭載された核弾頭である。外洋に出れば威力を発揮するが、港内では危険すぎて近寄れない。
海上幕僚長は、「ふぅ」と嘆息する。眼の前に置かれた紅茶を一口飲んで、再びため息。
「何が、短期育成プログラムだ。どうしてうちの組織は、彼女を最速昇進させたんだかね。社会一般の荒波もしらない若造に……いや実際、警察官僚と財務官僚の間に生まれた官僚一家のお嬢様だからなあ。世間知らずは仕方ない」
自分が署名した人事書類を視線を落として、また嘆息。
「3等海佐に昇任させる……させたくないなあ」
心の中でそっと悪態をつくのだった。
こういうお話を現在鋭意執筆中。
近日中にアップ出来たらいいなぁ……と、こんな時間まで悩み苦しんでいる今日このごろ(=_=;)