12月は忙しかった。
忙しさにかまけて何も書く事ができませんでした。
文章は書く事でしか上達しない。
つまり僕は一ヶ月分その上達さ加減を失った事になる。
アディオス一ヶ月、さようなら2018年とその12月。
文章を巧く書く為に必要な修練というのは、具体的に一ヶ月に何枚くらい書けばいいのだろう? 原稿用紙何枚分? 最近で言うと何バイト分書けば「お上手」になるのか? 100枚? 4万文字? えーと、byteの事はよくわからない。100メガショック!(適当)
恐らく、「書けば書くほど良い」という事なのだろう。
ビタミン剤と同じように、摂り過ぎた栄養分は外部へ廃棄されるシステムなのだ。「ビタミンC取り過ぎましたね」と言って、「はいお疲れ様〜」などと誰かしらが勝手に判断し、飲み過ぎたビールと一緒にハイ、サヨウナリー。君達は多過ぎたから廃棄されましたが、他の栄養分は充分身体の滋養として生かされましたから、成仏してちょ、という風に。
しかし、しかしですよ。
全く書く気が起きないのに無理矢理ひり書くというのは如何なものなのか。それは身体の適正体重を超えたダイエットのように、他人から見ても「あの人まだダイエットしてるね」「充分痩せてるのに、これ以上痩せてどうするのかしら」「依存症なんじゃないの?」「ねー」「ねー」という風に、読んでいて辛い(今風に言うと『つらたにえん』な)干からびた文章になってしまうのではないか?
そこからの、近年流行語大賞(知らんけど)である「インプット」が必要になってくるのだろう、と僕は思う。観たり聴いたり感じたりした事が繋ぎ合わさって、自然と書きたいテーマが生まれて、書かないと居ても立ってもいられない状態になるのではないか。きっとそうだ。
じゃあ具体的には何時間映画を観れば、何冊本を読めばその居ても立ってもいられない状態になる事ができるのか? 「書かせてくれ、さもなければ死んでしまう!」状態に陥る事が出来るのだろうか? もしその値が設定されているとして、amazonプライムなら120時間、Netflixなら98時間とか、芥川賞受賞作品なら45本、直木賞受賞作品なら90本とか、そういう風に定まっているのだろうか?
な訳ない。んな訳ない。
書きたいから書く。だから上達し、文章が巧くなるんじゃないのか。
無理矢理詰め込まれた教育が我々に何をもたらしたのか?
友達に「面白い話して!」とせがまれて無理矢理ひり出したモノが、面白かった試しなど無い。マンネリがマンネリを産み、そのつまらなさが創作意欲を完膚無きまで叩きのめし、地中に埋めその上に暮石を建て、死ぬまで「書きたい」「でも無理だ」の狭間でしょうもない日常を繰り返し、喜びや悲しみを感じながら「ああ、書きたかったなぁ」と後悔して息を引き取る運命だ。悲しすぎる話だ。そんなの酷い。あんまりだ。病床に伏せて、「あ、これ書きたい!」と雷に打たれたような衝動が湧き上がったとして、それを書き上げる体力が足りなかったり、手遅れで死んじゃったりしたら目も当てられない。近くに偶然、野心を持ち合わせない性格がいいサリエリが居て、口頭筆記を引き受けてくれるような御身分であればまだその可能性は低いだろうけど。
だから12月は書きませんでした(長い言い訳だ)
書けませんでした、じゃなくて書きませんでしたー(小学生か)
うんこブリブリー(書いてて涙でるわ)
1月は何か書きたいと思います。
同人誌のオーケンのやつ書いてるから、まずはそれを書き上げたいと思う。でもどれくらい書けばいいのか分からない。同人誌なんて友達のエロ漫画をコンビニで人目を気にしながらコソコソと印刷を手伝った事しかない。あれは悲しい作業だった。何故手伝ったんだ俺。心優しい僕。夕方の綺麗な景色に溶け込むファミリーマートの中で、確か当時僕は23歳くらいだったと思う。頼りない紙で頼りなく製本されて、「こんなん出ましたけどー」とファミマのコピー機からこの世に産まれててきたエロ漫画同人誌の中身は……ウッ、頭が割れるッ! 僕は描いてないです。念のため。
2018年はいい年だった。
まずは、小説「空気の中に変なものを」を書き上げて、インターネットに公開できた事に素直に喜びがある。もしかしたら小説のようなモノ、かもしれない。それでも充分だ。書かないよりは死ぬ時の後悔がすごく減った。
それに伴って、随分インターネット上の繋がりが増えた。僕が一方的にリスペクトしているキタハラさんや、その他面白い小説を書く人や創作系の人達のフォロー・フォロワーが増えた。フォロワーは多分120人くらい増えた。きっとフォローも同等かそれ以上に増えているのだろう。
それに伴って困った事があって、それはインターネットが心の拠り所になりつつある、という事だ。
僕は20代の頃からインターネットにどハマりして、2chのオフ会や、ドリームキャストで初代PSOで知り合った人とライブに行くなど、大分活用してきた。ウソだ。活用なんて綺麗な言葉じゃない。それは依存だった。匿名掲示板で煽り煽られ、レスバトルし、ブラクラを踏み、顔も知らぬ人達と同盟を組み、言葉で殴り殴られ、時に癒された。三行でお礼を書きまくった。その代わりに悲しい程ガラガラな音質MP3を塩からダウンロードしてラブマで結合しまくった。完全に病気だった。現実世界よりインターネットの生活が楽しかったからだ。バイトで帰宅すればすぐにPCを付けて入り浸った。リアル友達との会話もネット上のアレコレについてしか話さなかった。本当に悲しいほどどうでも良い話だ。
でもあるキッカケを境に(よく思い出せないのだけど)、インターネット依存は良くないと思って、リアルの拡充に重きを置くようになった。mixiなど、現実世界の顔と名前で交流するサイトも活気を帯びて、インターネットは(現実世界に行き場所がない我々が)逃げ込む場所ではなく、現実世界を補完し、Q.O.Lを上げる場所になりつつあった。その際の摩擦はまた別の機会に改めるとして、インターネットに深く深くハマるという事はなくなった。あるいは、全日本人が等しくインターネットに健全に依存するという状況にあって、清潔で整備されたネットに興味がなくなったという事かも知れない。僕だけの世界ではなくなったインターネットに興味が薄れたのだ。
そのおかげで、何とか僕は奇跡的に結婚したりして、また非正規ではあるが就職をしたりして、不充分ながら社会的な体裁を運良く取り繕う事ができた訳だけれど、今回小説をインターネットに公開した事で、再びネット依存が熱を帯びてきたような気がする。
具体的には、小説というような心の奥底から生まれたものをネットに置き、それを不特定多数に読んでもらった事で、本当の僕について分かってくれている人は、職場の顔見知りや親族ではなく、顔も知らない僕の小説を「良い」と言ってくれるネット上の人達なんじゃないか、と思い始めたという事だ。現実世界で僕が小説を書いていると知っている人はほとんど居ない。でも、インターネットには(現実世界に比べれば)大勢いる。そして、その小説が極めて僕自身個人的に重要なものであった場合、顔見知りで本名を呼び合う現実世界の人達よりも、顔も本名も知らないインターネット上の人達の方が近しい関係と感じられてしまうという事だ。何故なら、とてもとても小さい世界ではあるけれども、そこにはまた、僕だけのインターネットが存在しているから。
もちろん僕が書いていると知っている人達とはより良い関係になったし、それはそれで喜ばしい事ではあるのだけど、単に知り合い・職場の仲間という関係性程度では「顔も知らないインターネットの人の方が面白いし、大切」という風に価値観の移行が行われたという事が、2018年について語る時の大きなトピックになる。
リアル知り合いと、ネット上の知り合いについての垣根が低くなったと言えるのかも知れないし、人生の重きをネット方面に価値観を切ったという風にも言えるかも知れない。そこら辺は今は分からない。いずれ、後世の歴史が判断するのだろう(大袈裟だなぁ)
もしよろしければ今年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。
明けましておめでとうございます。