ヤマザキ春のパン祭りが始まると、春は近いなあと感じます。今年もシールを集めて白いお皿をもらうぞ! 毎年形は変わるものの使いやすくて大好きなのです。白いお皿。
『サブカルチャー文学論』大塚英志(朝日新聞社)
ここで取り上げられる「サブカルチャー文学」とは「サブカルチャーとしての文学」で、具体的には村上龍、田中康夫、村上春樹、吉本ばなな、山田詠美、川上弘美、庄司薫、新井素子、三島由紀夫、(非サブカルチャー文学として)石原慎太郎、大江健三郎などなど、なのですが。
読書メモ⑫で紹介した『ポピュラー文学の社会学』でいうところの「ポピュラー文学」とも若干意味合いが異なるような。というのも、この本で論じているのは、戦後文芸評論の第一人者江藤淳が、1978年に既に嘆いたところの文学の「サブカルチャア化」、更には小説新人賞である「文藝賞」の選考委員として三十年にわたって最前線で江藤が引き続けた防衛線――許せるサブカルチャーと許せないサブカルチャーの線引き――が後退し続け、ついには「文学史的な基準で彼らを評価することを断念」するに至る、その江藤淳にとっての「サブカルチャア」文学論に「接ぎ木」をしたものだからです。
江藤淳の思想を辿る側面のある本論は時に感傷的、ときに嫌味に近い皮肉混じりで、その矛先にあまり突っ込みたくないなあ(と私も感傷的に述べてみる)なんて思いながら読んでたのですけど、あたりまえというかなんというか、本人自覚があってやってることなのですねー。
「ぼくが本書のごとき文芸評論めいた文章を書くことになったのは、二人の故人となった文学者が示してくれたサブカルチャー的な物書きへの不思議な寛容さがきっかけである。
(中略)「サブカルチャー」としか名付けようのない問題を、彼らは「文学」の問題と感じとっており、そして実際のサブカルチャーの作者でありながら批評めいた領域に迷い込んできた人間がたまたまその視界の片隅に入り、困惑したのだろう。その場合、困惑はむしろ嫌悪にこそ転じていいのに、彼らは当のぼくにとってさえ不思議な好意を示した。
(中略)その意味で本書はとうに文芸評論ではない。サブカルチャーの作り手としてのぼくがサブカルチャーに奇妙な寛容さを示した文学者に導かれながら、サブカルチャーとはいかにあり得るべきかを考える、その思考の記録である」(あとがきより)
「二人の故人となった文学者」は江藤淳と中上健次ですが。他にもいろいろ文芸批評や論文を読んでいると、大御所といえる領域の文学者、批評家さんたちが、「サブカルチャー的な」もの、その中でも物語性のあるものですね、ファンタジーはもちろんアニメ映画や漫画やゲームやライトノベルまで、江藤淳が用いたところの「全体文化」から乖離した「部分的な文化現象」という意味での「サブカルチャア」の領域にまで踏み込んでいることに驚きます。(でも、〇〇年前、私の学生時代のゼミの先生も安倍晴明が主人公の少女漫画まで読んでたのですよねえ。そういえば。学者って研究対象に関連のあるものなら何でも目を通すのですよね)
卒論でライトノベルをやりたがる学生が増えたということで『ライトノベル研究序説』が刊行されたのが2009年。でもそのとっくに以前からガチ研究者がライトノベルに注視してる、批評にさらされてるわけです。
それを意識して、「ライトノベルとはいかにあり得るべきか」を考えてみるのも、書き手としてのステップアップに必要なのじゃなかろうか、と他人事のように述べてみる。
閑話休題。もう少し内容について触れておきますと。
「写生」という近代文学的な伝統から離脱し「まんが的記号」を用いて小説を情報化したり、サブカルチャーの手口(設定とか世界観とかキャラクターとか)を持ち込むことで文学の延命を図ったり、95年の「文学の危機」に際して文学者がいかにだらしなかったか、それらのことに自覚的だったか批判的であったか、あるいは屈託なく無意識で悪気はなかったのか。
「そのような「文学」の現在を考えた時、江藤の問いかけは極めて純朴であり誠実であるとさえいえる。江藤は「文学」的虚構とその外側の現実との関りを不可避なものとして考えているが、しかし、それを犯罪と小説世界の類似をもって立証しようとはしない。あくまでも「文学」者が、小説の外側の世界でいかに「成熟」し得るか、そして、それが再び「文学」に還流することで「文学」と「現実」は関係を結べる、と江藤は信じている。」(p599より)
文学者でなくとも、物語を書くこと自体が「ゆきてかえりし物語」です。私はそう思っています。
最後に、批評とは関係ないのですけど、このお言葉を引用しておきます。
「どのジャンルにも誉め易い人、というのがいてアニメやコミックでは宮崎駿や大友克洋あたりがそれに相当する。(中略)そこではある作り手の余りにあから様な欠点に言及しないことで一つのギルド的な集団が無言のうちに共同性を保つ。その作り手の欠点に言及することは自身に根本的な批評を向けることになり、だからこそそれは揃って回避され、結果としてそこに一つの禁忌を共有する言語空間が出来上がる。そしてそういうやましさを奇妙に共有する言語空間に、小説に関わる人たちは案外とだらしなく崩れ落ちてしまうものなのだな、とぼくなどは思う。」(p215より)
はい。気をつけましょう。
『感情化する社会』大塚英志(太田出版)
先の『サブカルチャー文学論』が2004年の刊行。そしてこちらが2016年。日本の現在を社会学的に批評するテーマではあるものの「文学」に寄っているので、『サブカルチャー文学論』でも盛大な自爆に終わったかのように取り上げられた中上健次の『南回帰線』は今思えば「文豪メッセンジャー」的だとか、主人公の成熟を拒否し続けた村上春樹が『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』で「教養小説」化を選択しているとか、補填している部分があるので、続けて読むと面白かったのですが……。こちらでは「文学」にとって不愉快な近未来が示されています。「不愉快に」批評するのが本書の目的らしいので。
「webでも現実で提供されるサービスの全てが私たちに快適であったか否か、つまり「感情労働」としての相手を評価することが日々求められる」現在で「心地よい感情を提供することばしか、政治にもジャーナリズムにも文学にも求めず、そのユーザーの要求に彼らはいとも簡単に屈した。」現在があるのですね。
web、なかでもプラットフォームは「人の行動そのものを「労働」として搾取していく仕掛け」であり、無償の投稿サイトに「投稿」するのももちろん無償の労働であり、
「しかし、すべての投稿者に再生数に応じてロイヤリティーを発生させれば、プラットフォームは確実に破綻する。正確に言えばそれは可能だが、フリーレイバーによって生じたつくり手に還元されない余剰で、web企業は投資やM&Aをおこない企業を拡張している。ここにはきわめて教科書的な資本による労働者からの搾取があるが、それが現状では「見えない」。」(p66より)
2016年の批評ですよ、これ。念のため。
「web上の「自己表出」はきわめて直接的な感情の吐露」であり「小説がサプリメント化した、つまり「泣ける」「怖い」「感動する」「役に立つ」といった即効性が機能性食品のごとく求められる」「つまり小説の「感情化」である。機能性文学のある部分は「感情小説」とでも呼ぶべきだろう」
このことを踏まえて「機能性文学論」「AI文学論」に章が進む前に「スクールカースト文学論」が挟まります。スクールカースト「ラノベ」の最新作として『ただ、それだけでよかったんです』が紹介されます。私はもちろん(オイ)読んでませんが「革命の頓挫と母性的なものへの回帰という点で」「一番新しい「転向小説」だと言える」らしいです。なんでも作者は社会学者らしい。
「何よりもこの小説が投稿された「ラノベ」という領域そのものがこのような評価システムによって運営されているまでは当然、作者は折り込みずみであろう。(中略)この小説が投稿された「電撃文庫」のレーベルの発行元のKADOKAWAは小説投稿サイト「カクヨム」を運営する。(中略)この小説が「ラノベ」という制度、KADOKAWAというプラットフォーム企業への「懐疑」から始まっているのか否かは興味深いところだが、これを刊行した編集者には自らを疑う小説を刊行したという自覚はないだろう」(p108より)
ふむ、つまりカクヨムがカースト化するという予見ですかね? ということは、もうしちゃってるのですかねー。たいへんだー。
ところでところで、この小説のラストは『伊豆の踊子』のそれと対比できるというのです。
「「ただ聞いてほしい作者」と「小説という形式の使い手である作者」のわかりやすい違いがここにはある。そして前者から後者への「成熟」をかつてこの国の文学者たちはたどっていた。ラノベ作家を含む現在の小説の書き手がそれを再びたどるのか、たどらないのかは彼らの問題である。
(中略)「文学」が「文壇」を疑えないように、ラノベはプラットフォームを疑えない。そして『ただ、それだけでよかったんです』が「制度」を懐疑するものの敗北と、「私」という感情の慰撫を小説の結末とするとき、それはこの国の現在で発せられる声が強者の声、勝者の声である、ということと関りがある問題だと論を進めておくべきだろう。」(p116より)
さてさて、「web上のコミュニケーションにおいて、プラットフォームという「場」のなかで送り手と受け手は常に交代し、受け手は送り手の語りに参入し、語りは常につくり換えられていく」現象は口承文芸のオーディエンス論に類似する特質であり、web文学の口承文芸化であるとしたうえで、「物語るAI」の可能性へと章は進んで行きます。
GoogleがAIに「猫ってこんな感じ?」と猫を認識させたのと同様に、「小説ってこんな感じ?」と表示させるのは可能だと。そしてもっと短期的に実現できて実用性が高いのは、小説を「評価」するAIだと。
pixivなどの画像投稿サイトには、その絵がどれほどの閲覧数を得るのか予測するAIが(2016年時点で)既にある。「投稿サイトでウケる絵ってこんな感じ」をAIが学んでる。長くなりますが以下、引用します。
「これを「小説家になろう」や「カクヨム」などの小説投稿サイトに応用すればどうなるか。これらのサイトの投稿をビッグデータとして使えれば、おそらく批評するAIはつくれるはずだ。実際にIT系企業の幹部に聞いたら「できる」との答えだった。
するとAIは「作者の死」をもたらす前に「編集者の死」をもたらすことになる。
(中略)ぼくがこういう悪態をつくと、編集者は「編集者の審美眼」、つまり小説の善し悪しを判断する特別な力が自分たち編集者にはある、と主張したがる。
(中略)しかし、KADOKAWAに限ってもあいつらに小説の善し悪しがわかる、と言われても困る、という人々の顔がどうしても浮かぶ。だからといってユーザーの評価が公平かというと、「カクヨム」の新人賞に対して、評価するユーザーは全投稿作品を読んだわけではなく、しかし一本の小説も最後まで読まず「評価」して、それで賞を決めるシステムはおかしい、という至極当然の批判が「投稿」として掲載された。
編集者はランキングの上位をチェックするだけだが、しかしランキングのユーザー評が妥当とも言いがたい。
ならば、AIのほうが「公平」かもしれない、と考える投稿者もいるはずだ。
(中略)KADOKAWAも「小説が読める」編集者の多くをリストラしたのだから、このAIを開発して、編集者という仕事そのものを消滅させればいい。角川歴彦はドワンゴと角川の「合併」のとき、これからは出版社は編集者の隣りにプログラマーがいる企業になると予見したが、そうではなく、編集者がAIにとってかわるのが来たるべき出版社のあり方というものだ。小説評価AIは小説の「おもしろい」「おもしろくない」を判断するレビュー的「批評」も代行できることになり、本屋大賞のかわりにAI大賞が近い将来運営されてもそれはSFではない。AIでもきっと百田尚樹を選んでくれるだろう。」(p279-281)
読者に編集者の代わりをしてもらうための「新文芸宣言」「カクヨム」「読者選考」でしたが、今回のカクコンでもランキングが正常に機能しているとは言いがたかった。となれば、これはもう一足飛びにAI評価を導入しちゃえば、角川は大したものですよねえ。と、私も逆説的に述べておきます。
とはいえ、いずれAIが示すであろう、おそらくためらいも躊躇もなく身も蓋もない「ラノベってこんな感じ?」「文学ってこんな感じ?」に目を覆いたくなるだろうことだろうけども、単純にそれを早く見たいとも思ってしまいます。