久々すぎる読書メモ。もう読書メモはおしまいか~なんて思われてたかしら?
今回は文芸評論と文化論。さっくり読める二冊です。
『文学的商品学』斎藤美奈子(紀伊國屋書店)
辛口文芸評論家の斎藤美奈子が伝授してくれる「商品情報を読むように小説を読んでみよう」という試みです。小説においての「モノの描かれ方」をクローズアップするということ。
例えば「アパレル泣かせの青春小説」の章。恋愛小説と共に文学の王道である青春小説は、ファッションをどう描いてきたのか……碌に描いてないのですよー、これが。がっかりするくらい。現代は衣服の描写がしにくい時代であることに加えて最大の理由は青春小説はたいがい一人称で書かれているから、なのですって。そんな中、その後の一人称文体に絶大な影響を与えた庄司薫の「薫くん四部作」では、自覚的にファッションの描写が為されているのだそうです。
そんなこんなを突き詰めていくと、「他人の衣服に目がいくのは語り手がドキドキしたときである」もっというと「青春小説の衣服は「脱ぐ/脱がせる」ためにある」――確かに! 私なんか、脱がせることを考えて、ゆかなんにいつもワンピースを…………けしからーん!!
「飽食の時代のフード小説」の章では、
「これはいわゆるひとつのアフォリズムっていうやつです。(中略)すなわち「料理とは人生である」あるいは「人生とは料理である」。食べ物部門と人生部門が癒着した状態。こういうのは通俗的な人生論好きの読者にはたいへん喜ばれます。しかし、なんとありがちな結論でしょう。比喩に頼った小説はなべてこういう風になる。ミもフタもないことをいっちゃうと、文学は暗喩から腐っていくのです。」(p97より)
「料理の質と男女間の距離は正比例する、ということです。(中略)よそよそしい高級料理はセクシーでスリリングな(=不安定な)男女の記号。家庭の料理はエロスの薄れた(=安定した)男女の記号。それも通りこしてゆで卵やするめのレベルまでいくと、男女の間もだんだんすさんだ感じになってくる。」(p100より)
う、う~ん。なるほど。
「いかす! バンド文学」の章なんて特に面白かったです。小説で音を表現するってムズカシイ。現代文学に出てくる音楽ってほとんどが固有名詞なんだそうです。「最高のバンドだ」なんていわれてもスタン・ゲッツを知らなきゃそれでおしまい、みたいな、読者の知識に頼った雰囲気でしかないってことですかね?
それがバブル期のバンドブーム後に「歌詞」が登場するようになった。
音を文字で表現するにはふたつの方法があって、オノマトペ(擬音語系)と、「」つまり会話(言語系)ですよね。オノマトペだったら、ジャジャジャジャーン! 会話だったら「♪ゆうやーけ、こやけーの」って具合に。
バンド文学は後者の言語系の方法で音楽を表現しようとした、というのですけど、オノマトペを用いなかった理由には、オノマトペ=幼稚っていう意識が絶対にありますよね。で、そのオノマトペを開き直ったように導入した芦原すなおの『青春デンデケデケデケ』が紹介されます。
「オノマトペの多用に「らいられら英語」、ときには英語の歌詞にルビをつけ、ときには小さな楽譜まで出す。『青春デンデケデケデケ』は、印刷屋さん泣かせのありとあらゆる方法で「音を鳴らす」ことに精を出します。それはいわゆる小説作法からは邪道とみなされるものかもしれません。ですが、開き直った邪道は、ときに正攻法をも凌駕する。」(p159より)
……なのですけど、なぜ邪道が成功したのかというと、作中に出てくるバンドが高校生による素人バンド――下手っぴバンドだったからこそ「ことば」に縛られたバンド文学の掟を壊すことができた、というのです。うーむ、ムズカシイですねえ。
といふうに、こういう読み方もあるのだよ、と紹介してくれている本書なのだけど、書く方にとっても様々なヒントに溢れています。
『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』宇野常寛(朝日新聞出版社)
元になっているのは大学での講義録なので、たいへん分かりやすくまとまっています。若い読者のための、とはなってるけど戦後から2018年当時までのサブカルチャーの歴史を振り返るには秀逸な一冊だと思います。というのも、ここのところさんざんオタク文化やサブカル社会学みたいな本を読み漁ってたのですけど、その主流の論説を要約してくれてる一冊だと感じたからです。
残念ながらその結論は、サブカルチャーの時代は終わろうとしている、ということです。新しいサブカルチャーはあまり求められなくなっている、サブカルチャーが持っていたはずの新しいものを生み出す力が弱くなっている。
読書メモ⑱で紹介した『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったかのか?』でも「なぜ成長を描かなくなったのか?」という問題が語られていましたが、こちらでも戦後日本と男性性の問題として「成熟」をいかに描くかという問題が主に少年マンガとロボットアニメを通じて語られていきます。評論家の大塚英志が提起した「アトムの命題」――「記号的な身体で近代文学的な内面をどう描くか」です。
車田正美が最初に成功させたジャンプのトーナメントバトル形式は「実は成長していないのに、成長しているかのように表面的に装う」ことを続けますが、これは90年代半ばに限界を迎え、『ONE PIECE』は縦に伸びる(フリをする)のではなく、横に広げる(仲間が増えて絆が深まる)アプローチで成功しますが、結局はルフィも「成長しない」という問題にぶち当たる。そのための突破口がエースの死と二年後の再集結ということなのです。
「昔ながらの「男らしさ」やそれと結びついた「大人の男」のビジョンが信じられなくなってきたにもかかわらず、現実の僕らは歳をとっていくわけです。だから「新しい男の歳のとり方」を本当は描かなければいけないんだけど、尾田栄一郎も富樫義博も高橋ヒロシも、そこで苦戦を強いられているというのが現状だと思います。だからこそ、たとえばこの先、『ONE PIECE』や『HUNTER×HUNTER』がどう終わっていくのかに、昔の男らしさが解体されたあとのビジョンが問われていくようにも思います。」(p138より)
では、ロボットアニメではどうなのか。
「あり得たはずの強くカッコいい日本をファンタジーの世界で実現したい」という男の子の成長願望の受け皿だったロボットアニメを、若者の自己探求の物語にアップデートしたのがガンダムだった。一方で、80年代の少年マンガのトレンドの変化――スポ恨からトーナメントバトルへ、そしてラブコメへの変化をロボットアニメに持ち込んだのが『マクロス』ということになるのですが。
「架空の歴史とかりそめの身体を通して、失われた少年の成長物語を回復することができるのか」という問いに対して「そんなことはできない」という結論を出してしまったのが『Zガンダム』なのですね。続く『逆襲のシャア』では成長する物語の問題設定が放棄され、ロボットアニメの敗北宣言が為されてしまう。そして戦後ロボットアニメの総決算として登場するのが『エヴァンゲリオン』。
「これは要するに「お父さんから与えられた機械の身体に乗って成長したフリをする」というロボットアニメの回路を信じられるか、そうでないかという葛藤ですね。『ガンダム』の富野由悠季はロボットアニメを信じていないわけです。でも富野より一世代下の庵野秀明は、まだちょっと信じたいと思っている。」(p197)
ということだったのですが、エヴァは物語そのものの敗北を体現してしまう。それゆえに社会現象となり、「庵野秀明という作家が優れていたのは、その物語の敗北と現実の優位という時代にほかの誰よりも敏感だったから」ということらしいです。
ところでこの『エヴァンゲリオン』と同じく95年放送のものすごいアニメがありましたよね。覚えてますか? 『ガンダムW』ですよ! 当時私のまわりでは、おたくvs腐女子(まだこういうコトバはありませんでしたが)の代理戦争って感じに盛り上がってまして(笑)
講義ではこの『ガンダムW』がけっこう持ち上げられてます。エヴァが戦後的な男性性の屈折を主題に据えていたことを考えると、『ガンダムW』は圧倒的に新しかった。問題がすでにいかに成熟するのではなく、成熟/未成熟に意味がなくなった世界をいかに生きるのかに切り替わってるっていうのですね。その『ガンダムW』のルーツは『鎧伝サムライトルーパー』なわけで。女子にウケるものは新しいってことですよねー。
ちなみに「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」ともいわれる「セカイ系」は、評論家の更科修一郎曰く「結末でアスカにフラれないエヴァ」ということで、
「要するに先行する『エヴァンゲリオン』よりも表現的に後退してしまったんですね。『エヴァ』が最後の最後で拒絶したものを、むしろ全面的に承認していわゆる「感動ポルノ」にしていったわけです。」(p276)
で、実は『エヴァンゲリオン』以前に、決定的に戦後アニメを自己破壊しちゃったのが『Vガンダム』で「戦後アニメーションは『Vガンダム』まで戻るべき」という厳しい見解が……。厳しいですねえ。
いやあ。ロボットアニメに尺を使いすぎちゃいました。講義録では、他にもオカルトブームや地下鉄サリン事件、震災後の想像力とアニメの未来、日本的なアイドルの成立やAKB48なんかもピックアップされてます。私はアイドルに詳しくないので、AKBについてなんて、とても面白く読みました。秋元康ってすごいのですねえー。
といことで、さっくり読めるのですが内容はとても濃い一冊です。