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「他者」の存在

『不純(?)文学 〜 文学を科学する』の中に


「ということは、動機も手段も当面は判定基準から除外されそうだね。作品を『テクスト』だけで評価しようとするのは、一つの立場ではありうるね」


という一節がある。私なりに「ささやかなこだわり」があるのは、

①「当面は」

②「一つの立場ではありうる」

という2点において態度を留保している部分である。

個人的には、自分がある一冊の本を買うときに、「純然たるテクスト」と「(場合によっては生まれてくる前から)作者が背負っている『文脈』を含めた『ものがたり』の一つの表現としての何か」と、いずれに対価を支払っているのか、と問われるならば、(全部ではないにせよ)圧倒的に後者の場合が多いからだ。

これは、良い悪いといった性質のものではなく、「読むという行為」に個々人がいかなる意味づけをするかの問題だと思う。それを裏返せば、「書くという行為」に創作者がいかなる意味づけをするかの問題でもあろう。

別の言い方をするならば、「ことばによって(by means of language)」何らかの感覚を伝えるべき「自分と同等の存在としての他者」の存在を前提するか否かの問題かもしれない。(cf. ハンナ・アーレントのいうところの「複数性」)

「他者」の存在を無視あるいは軽視して、評価基準を(読み手が 'bot' であれいわゆる「星爆」であれ)page view の類に求めるならば、「創作活動の全自動化」は技術的に可能かもしれないし、そこに「市場経済的ニーズ」も一定程度は存在するかもしれない。

しかし、その行き着く先は、「一人と一匹?」による創作活動の自給自足化、あるいは無数のAIによるアウトプットを無数のAIが「鑑賞・評価?」する不毛な世界かもしれない。

そうなったとき、我々の「社会」は、砂漠の砂粒のように「サラサラと漂流し」風に乗ってどこかへ消えてしまいそうではある。

2025.12.1

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