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不純(?)文学 〜 文学を科学する (2)

【100円ショップの柿右衛門】


「先生のお話って、相変わらず、冗談なんだか本気なんだかわからないんですね〜。なかなか尻尾を掴ませないなんて、狡すぎますよ!」

「いつも言ってるだろう。私が冗談みたいな話をするときは、半分冗談だけど『半分本気』なんだって。その言葉は最高の賛辞として受け取らせていただくよ」

「先生、そろそろ本題に戻りません?」

「そうそう。AIの潜在的可能性と限界の話だったね。あなたは『柿右衛門』を知っているかね」

「江戸時代初期の陶芸家で『柿右衛門の赤』を生み出した人ですよね」

「よく知ってるね。我々世代は、小学校の道徳の時間に教わったんだ。その『初代柿右衛門の赤』を、AIとロボットで完璧に再現することは『技術的には可能』で、大量生産して100円ショップで売ることだってできそうだね。そうなったら、あなたは100円ショップの柿右衛門に『価値』を見出すだろうか?」

「悩ましいですね。でも普段使い用には『割れても安心』だし、食卓が華やぐならいいかなぁ。道具は使ってこそ本来の価値を発揮しますしね」

「それは一つの考え方だね。美術館か蒐集家のための古美術品としての価値とは別に、生活に根ざした道具としての価値も同様に大切だと思うよ。陶磁器に限らず、初めて世に出た時は『最先端の高級品』だったものが、やがて大量生産されて低価格化していくのはよくあることだね。それを『陳腐化・価値の低下』と捉えるか、『技術の普及・文化的向上』と捉えるかは人それぞれかもしれないね」

「そのことと文学に何の関係があるんですか?」

「実は関係ありありなんだ。商品の希少性とマーケットの規模の関係に着目するといいかもね。100万円の高級茶碗を100人のために作るのと、大量生産・コストダウンによって100円の普及品を100万人のために作るのとでは、どちらが『価値のある仕事』だといえるだろうか?」

「F1レース用のマシンと大衆車を比べるようなものですね」

「そうそう。そもそも、優劣をつけること自体がナンセンスかもしれないね。F1を通して培われた最先端技術が、大衆車の改良にも大いに役立っているそうだよ」

「個人的には、F1マシンを運転する技術も場所もないので、大衆車を買ってもらう方が嬉しいかも・・・」

「おいおい、自分で買いましょうよ!」

「そうですね。そのうちビッグな文学賞の賞金をゲットしましょうか」

「・・・」



【fine literature と commodity literature】


「あなたが有名作家になる日を楽しみにしているよ!」

「先生の真似して『冗談みたいな話』をしてみただけですよ〜。それより『柿右衛門』の話はどうなったんですか?」

「私の個人的見解では、フィクション・ノンフィクションを問わず、文学を『fine literature』と『commodity literature』とに分けて考えるとすっきりするように思うんだ。化学工業における『fine chemicals』『commodity chemicals』という用語とのアナロジーで理解してもらうとわかりやすいかな」

「技術の粋を集めた最先端の高級品と、量産可能で需要もはるかに大きい汎用品、みたいなイメージですか?」

「当たらずといえども遠からずかな。言語感覚に優れた人々による、『ことばの限界』を超えて新たな可能性を探る試みを『fine literature』と呼んでもいいように思うんだ。ただし、前例のない試みを正当に評価できる人も限られるから、活字離れや読解力の低下が社会問題になるような現状では、ミリオンセラーのような形での『商業的成功』はあまり期待しない方がいいかもしれないね。それに対して、誰にでも『わかりやすく』かつ『共感しやすい』作品に対するニーズの方が遥かに大きく、書き手の層も厚そうだね。こちらの分野を『commodity literature』と呼んではどうかと思うんだ。『語り得るもの』を扱って『わかりやすく、読みやすい』が故に、『commodity literature』分野でAI作家が活躍する日も近いかもしれないね」

「なるほど。大体わかったような気がします」

「早合点は怪我のもとだよ。話はそこで終わらないんだ。『柿右衛門』の話で触れたことに関連して、文学の世界でも『fine literature の commodity literature 化』が起こりうるんだ」

「ええ〜? どういうことですか?」



【ことばのフロンティアを求めて】


「先生、だんだん頭の中がこんがらがってきましたよ!」

「そろそろ店じまいの時間のようだね。これまでの議論をまとめると、我々をまるで空気や空間のように取り巻く『語り得ぬもの』に対する感覚を『ことばによって(by means of language)』他者に伝えようとする試みのことを『fine literature』と呼ぶならば、それが世の中に受容され普及し、人々に『普通のことば』として共有されることによって、『語り得るもの』の領域が広がっていくのさ。その結果、かつては『fine literature』であったものも、ごくありふれて誰にでもわかる『commodity literature』になっていく。それは、決して陳腐化・劣化するということではなく、文化の一部として広く受け入れられるということを意味するんだ。そして『fine literature』は、常に新たな『ことばのフロンティア』を求めて、言語表現の可能性を模索し続けるんだろうね。この営みは、決してAIでは代替できない『人間の特権』だと思うよ」

「なんだか『ことばの世界の開拓者』みたいでお洒落ですね! おかげさまで、何とか今週の課題レポートも書けそうです!」

「おいおい、レポートくらい『自分の頭で』考えようよ! こんな老人の与太話に影響されてるようじゃ、『開拓者』への道のりは遠そうだなぁ・・・」



【あとがき】


「ある対話」(第一話)の中に「ポエムな人々」というフレーズが出てきますが、これは「文学的才能と情熱にあふれた人々」という意味で、私なりの憧憬と敬意を込めた表現のつもりです。極めて散文的な感性しか持ち得なかった私にとって、文芸をこよなく愛し文芸に生きた「文学青年・文学少女」であった亡父・亡姉は、「理解(批評)はできるが、決して真似のできない永遠の目標のような存在」であり続けています。

「ポエムな人々」の対義語は、あえていうならば「ロジックの人々」かもしれません。

拙文を概ね書き終えた後で、寺田寅彦先生の『科学と文学』(青空文庫)を拝読する機会があり、「ポエムな人々」と「ロジックの人々」とを殊更に二項対立的に捉える必要もなかったのかもしれない、などと相変わらず「落ち着きのないこと」を考えている今日この頃です。「純文学とは何か」という問いは、この数か月間ずっと気になって頭から離れることのなかったテーマです。拙文は、あくまでも現時点における「私的な思考ツール」としての「暫定的整理」にすぎないので、半年後には全く異なった結論に至っている可能性も残っております。悪しからず。

(完)



2025.11.17

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