まぁ、そろそろ書いてもいいかな。
ただ、これも『芥 Ⅰ』のあとがきになるので、読み終わった方だけ読んでいただきたい。
「敵を欺くにはまず味方から」などという言葉があるけれど、先のホワイトハウスでのハプニング映像を見て、誰が一番喜ぶだろう!?と思った時に真っ先に思い浮かんだのはあろうことかロシアのプーチンの顔だった。ん?なんで、わざわざ、そんな一番の迷惑野郎を喜ばすことをするんだ?ましてや、50分もかけてである。
中学生の頃からフレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』や『第四の核』『ネゴシエーター』などを愛読していた私は、「待てよ!?これがもし、仕込んだシナリオだとしたら、とんでもない国際謀略の一大スペクタクルが展開されていることになるぞ!」と興奮したのが、筆を執ったキッカケであり、願いは、何よりも、核兵器の保有の有無による圧倒的武力の差で、一方的な攻撃に晒され、反撃すら許されない中、我が子や両親や血を分けた兄弟姉妹たち無辜の生命が無残にも奪われていく現状に憤慨していたからに他ならない。
そして、また、世間を見まわしてみれば、歪んだ一方的な男子の性的欲求や支配欲等に根ざした犯罪や暴力がいかに蔓延っていることか?という現実であり、また大きな時間軸で男女の関係性を眺めてみれば、(西洋的歴史史観に立つことになるが)人類有史2000有余年とすれば、そのうち、1900年間、なんと95%の時間は、男女不平等な社会のまま、男と女しかいない世の中であるにもかかわらず、我々ホモ・サピエンスは時を過ごしてきたのである。これ、もし、女子が筋力増強剤を飲みまくって筋力や膂力で男子を凌駕したならば、その瞬間、マルクス主義・マキャベリズムではないが、革命が起き、男子の頭を足で踏んづけて、オラオラ!と押さえつけて、かしずかせる日が必ずやくるであろう。人はこれを「寝具由裸離貞(シンギュラリティ):もうこれまでのような男子の意のままにベッドで裸で男子に組み敷かれるような由からは離れる貞となる意」という。※これだけで、SF小説を一本書けてしまいそうである。
また、世界の政治や歴史や生活を観察するにつけ、「人間とはいかにマウントを取りたがる生き物」か、ということである。支配層と被支配層、1800年代半ばまでは、奴隷制度が息づいていたわけであり、戦争を起こしてなぜ旨味があったかと言えば、土地(それに付随する農作物や油田等の価値)と労働力の搾取が可能であったからに他ならない。昨今の欧米の政権交代の要因は一番はなんと言っても移民問題に対する立場の違いであり、国民感情の分断である。それは、欧米に限ったことではなく、シリアやガザの問題しかり、ウイグルの問題しかりである。
それらの諸悪の根源となっている、核兵器や男子の煩悩を司る精子、国民間に分断を招くマウント思想(日本や韓国・中国などの東アジア各国では、異様とも言える幼少期からの選良選抜の意識が極端に強く、中国のSNSに上げられている保育器に入る赤ちゃんの上に「高考(ガオカオ)まであと〇〇〇〇日」とカウントダウン時計が載っている写真を見た時に空恐ろしくなった思いがした)、これらを何か一度、何かシニカルに描きつつ、歪んだ我々の世界を炙り出しつつ、これまでの古典物理学的な古い発想ではなく、量子力学的な新しいモノの見方、捉え方をして、究極的には、「世界平和への希求」の思いの一心で書いたのが、この小説である。
分からないであろうが、そうなのである。
今、ウクライナへの侵略戦争は3年の時が経ってもなお、解決に至っていない。ロシアによる侵略行為が始まった当初は3日と持たないだろうとされていたことを思えば、驚異的な忍耐力である。が、3年は長い。しかも、思えば、その前はコロナ禍があったのである。そういう意味では、今17歳のウクライナの若者の青春とは一体、何なのか?一日も早い平和的解決が必要である。失われた命は戻ってこない。しかし、一度きりしかない人生でもある。せめて、平和に毎日暮らせないものか?
現在は平和な国、日本で暮らしている我々ですら、毎日、心に巣くう苦悩をなんとか飼い慣らしながら、やっとの思いで生きているのである。そのうえ、いつなんどき、頭の上から爆弾が降ってくるのか分からぬ中、明日、自分は朝、無事に目覚めることができるのか?などと思いながら暮らすのでは、あまりに可哀想である。
民主国家、共産主義国家、専制主義国家、どの首脳の顔ぶれを見ても、ひと癖もふた癖もある首脳ばかりである。そんな強烈キャラが驚異のバイタリティを示しながら、日々、生き馬の目を抜く駆け引きの戦いを繰り広げている。
しかし、一つのこんな解決があってもいいじゃないか?と思う。そんなラストを描いてみた。希望的思いも込めて。
ある一人の読者が私に寄せてくれた感想にこんなのがあった。
---現実世界も同様の解決を望みます、と。
私もまったくの同じ思いである。
来年こそは、大地に咲く花々を人間らしく愛でることのできる春がウクライナに住む人々に訪れてほしいと心から願うばかりである。
※『芥 Ⅱ』執筆の思いは、また時が経ってから書きたいと思います。