あとがきに代えて
(本作読了後にお読みください)
「神は死んだ-」とはフリードリヒ・ニーチェの言葉だったか。また、現代の知の巨人ユヴァル・ノア・ハラリも現代における神の相対的地位の低下を指摘している。
考えてみれば、例えば中世ヨーロッパでは、神の御名によって十字軍が組織されたり、カノッサの屈辱に代表されるように聖職者叙任権を教皇と皇帝の間で争ったかのように政治や暮らしに密接に結びついていたかと思えば、科学不在の時代にあっては、分からぬこと全てが「神のなせる業」として説明ともつかない説明の逃げ場とされていた。しかるに、現代においては科学や行政制度が発達したことによって、だいぶ神が出張ってくる領域や頻度は落ちてきた。
しかし、そんな現代において、なお、我々は受験前の人生における大事な瞬間の前や生命や宇宙の神秘に思いを馳せる時、神を思い、神に念じ、縋る。
人生にはよく3つの坂があると言われる。「上り坂/下り坂/まさか」である。今回の小説では、主人公のこの3つの坂、そして、作中でも触れたようにフランツ=カフカの『変身』で描かれた、状況に応じて周囲の人間関係の磁場が歪んでゆくさま、そして、ますます、その内なる神との対話、その声への帰依、縋る思いを濃くしていく過程、またその神の声は自らが作りだしている自認とよすが、それを超越した神の最後に下した啓示を描いたものである。
本作は、読み終わった後に広がる魂の救済に通ずる晴れ渡る光景を残したかった。処女作の『小説 王将戦』ではその後も描き切って解決を与える形で物語を閉じ、次作の『小説 棋王戦』では、人間の持つ複雑な心の有り様とその決断が幸と成すか、不幸を呼び込むものとなるのか不確実な賭けに出る不安を描き、最新作の『量子と精神』では、諧謔性を持たせた締め括りとした。いずれも愛着のある作品たちであるが、本作を読んで評した友人の言葉を借りれば「人間万事塞翁が馬」ということであり、「終わり」は次なる新たな自分への第一歩の「始まり」であるかもしれない、そんな希望の光を伝えたかった作品で、結構、気に入っている作品でもある。
本作を手に取った方々の魂の救済に少しでも繋がれば、幸いである。