─── ダンテ・アリギエーリの黒き伝説 ───
はるか昔、地獄は死者だけの領域ではなかった。
それは、生者をも呼び寄せる深淵だった。
ダンテ・アリギエーリ。
彼はただの詩人ではない。
人々は彼を「地獄に選ばれ、生きて帰還した者」と呼んだ。
ある夜、フィレンツェが静寂に沈む中、ダンテは忽然と姿を消した。
肉体は冷たいまま横たわり、魂だけが引き裂かれ、禁じられた門の前へと投げ出された。
「この門をくぐる者、一切の希望を捨てよ」
門は守護者なく開かれ、まるで彼を待っていたかのようだった。
彼を導いたのは、詩人ウェルギリウスの影。
天使でも悪魔でもない、境界に縛られた古き霊。
ダンテが地獄の円環を進むたび、地獄は彼を拒まなかった。
炎は身を焼かず、怪物は跪き、亡者たちは名を囁いた。
氷に閉ざされたルシフェルでさえ、彼を見て微笑んだという。
だが、代償は確実に支払われていた。
一つの円を越えるごとに、
彼は何かを失った。
眠り、温もり、恐怖、そして人間らしさ。
やがて残ったのは、
狂気に耐えうる「証人」だけだった。
現世に戻ったダンテの心臓は動いていたが、
その瞳には地獄の景色が刻まれていた。
血の河、燃える天、砕けた天使たち。
だから彼は書いた。
創作のためではない。
封印のために。
一節は楔となり、
一篇は扉を閉ざす鎖となった。
人々が「神曲」と呼ぶその書は、
詩ではない。
それは――警告だ。
もしその言葉が忘れ去られ、
誰にも読まれなくなった時、
ダンテが辿った道は再び開かれる。
そして地獄は、
人の世界への帰り道を思い出すだろう。
